絵:BANAKO
「快画」について書きます。
快画とは、「快い画」「快く描いた画」という意味です(我ながらドンピシャな造語と膝を打ちましたっ笑)。
これまで教室を運営しながら受講生とその作品に接してきて、僕の絵の判断基準と目指すべき創作の方向性が、より明確になってきました。
判断基準というのは、真剣に、気持ちを込めて、素直に、楽しんで描いているかどうかということ。目指すべき方向性というのは、一人一人の個性を引き出すこと。
絵というのは正直なもので、理想の絵を想像しながら描いても、技術が伴ってない場合には、そのギャップが絵に表れてしまう。または、それなりの技術があったとしても、それをひけらかす魂胆で描くと、どうしてもあざとい絵になる。
下手でもいいから、まずは素直に、丁寧に、気持ち良く描いてみること。そうすると、上手くはないかもしれないけど、人を惹き付ける絵になる。
描いてるときの作者の態度は、絵にちゃんと出るもの。そうやって描いていくうちに、技術も自然と身についてくる。
気持ちよく(快く)描いて、良い絵を生み出すって、実はけっこう難しい。なぜなら気持ち良さには両義性があるから。
描いてる自分の姿に酔いながら描きなぐる気持ちよさといのもある。自己陶酔。興奮状態。一人よがり。
例えるなら、のべつまくなし暴飲暴食する気持ち良さとか、人を相手に一方的に自慢話をする気持ち良さとか。
それもまあ、否定はしないけど、ここで云う気持ち良さとは、心を落ち着かせてその瞬間に集中して、絵筆を握る手が自然発生的に動く様子を観察するなかで、内側にある創造性がジワジワとわき起こる気持ち良さのこと。これ、心は穏やかなんだけど、創造性は大爆発している状態で、瞑想に近いかもしれません。
個性というのも、気持ちよく描いた画のなかから生まれると思います。突然、フッと現れる。いつその瞬間がやってくるのかわからない。
あの手この手で実験を繰り返していくなかで、個性の欠片が出てきたら、パッと拾い上げて、あとはそれを巨大化させていく。
個性的快画を生み出すのにあーだこーだ言葉は要りません。たった一言で、絵は変わり、大きく飛躍する。そのくらい、絵というのは意識の持ち方、取り組み方次第で変化するもの。
たまに「どうしても(自分が好きな)○○さんの絵に似てしまう」「もっと自分らしい絵を描きたい」という人がいるけど、似てしまうことを気にする必要なんてないです。気に入った絵があるなら、どんどん真似すればいい。
だけど、中途半端な真似ではダメ。徹底的に真似すること。そうすると、その作家のインスピレーションの源泉に辿り着く。
その源泉に触れて、ビビビッと共鳴すると、そこから先は自ずと似て非なる絵になってくる。表面的に真似た絵と、源泉に共鳴した絵との違いは一目瞭然。
僕がいつも言っている個性とは、奇をてらわず、その人が自然に気持ちよく描いた結果、出て来くるもののこと。それが地味であっても、誰かと似ていても、まったく問題ナシ。心を開いて、素直に快画を描けるようになることが「個性を引き出す」ということです。
絵を描き続けている人なら、たぶんみんな経験してると思うのだけど、予想以上の傑作が出来上がって、「あれ、なんでこんなの描けたんだろう?」「自分が描いたんじゃないみたい」というあの感じ。これこそ、心穏やかに集中して、自動的に手が動き、創造性が爆発して出来上がった「快画」なんだと思う。
僕はそういう体験をしながら、個性を発見してきた。だから「快画手法」の威力は知っているつもりだ。
しかし、正直に告白すると、ここ数年の僕は、その個性とやらを、表面的になぞるだけのことしかしていない気がする。いわば自己模倣。「こうすればこうなるよね」的な予定調和。
教室の生徒さんたちが生み出す快画は、僕を大いに刺激する。絵を描くことの素晴らしさを再認識させてくれる。
快画によって個性を見出したら、それを巨大化させる。これ大事。しかし、その個性を平然とぶち壊して、快画に立ち返る勇気と好奇心を忘れてしまったら、ああもったいない。
だから「やっぱり快画だ!」と思ったんです。
さて、引き続き教室では、快画を基盤としながら個々の作品制作を進めていきます。