せっかく絵を描くのだから、「自分らしい絵を描きたい」という想いは誰のなかにもあると思います。
絵に限らず、「自分らしく」というのはよく耳にしますね。「自分らしく振る舞いたい」とか「自分らしく生きたい」とか。
これらの意味するところはたぶん、「自分の特徴を発揮して」絵を描いたり、振る舞ったり、生きていきたい、ということなんだと思いますが、では、「自分の特徴」とはいったい何でしょうか。
まず、「背が高い」「顔が丸い」「鼻が高い」など外見的な特徴が挙げられますね。「長身をいかしてバスケットボールの選手になる」などは「自分らしい」選択です。
「明るい」「親切」「社交的」というのも特徴になります。「あの人、明るくて親切で人付き合いが良くて好感度抜群よね」なんて周囲の人に思われ、当人もそれを自覚していれば、自分らしく振る舞うことができます。
また、自分が「やっていて楽しい」「気持ちいい」「興奮する」「しっくりくる」という内面的な充実も、自分らしさといえるかもしれません。
上記のいずれかに当てはまり、自分らしく生きられたなら、それは目出度いことなのですが、そうすんなりといかないことも多いものです。
長身ではないけれどバスケットボール選手になりたいと思ったり、自分はほんとうは陰湿で意地悪で人嫌いにもかかわらず外面が良いために周囲から好感度抜群と思われていたり、「楽しい気持ちいい興奮する〜」と心は充実しているが、他人から見たら、やたらぎこちなくて、とても楽しそうには見えない、などなど。
そうなると、陰湿で意地悪なのが自分らしさなのか、外面のよいことが自分らしさなのか、気持ち良いのが自分らしさなのか、ぎこちなく見えるのが自分らしさなのか、気持ち良いのにぎこちなく見えるのが自分らしさなのか。
もうなにがなんだか。こんがらがってきますね。
結局のところ、自分らしさというのは、主観と客観が真逆のこともあって、ぼんやりと捉えどころのないものなんですね。
同様に、「素直な自分」や「本当の自分」や「自分に正直」というのも、他人からうかがい知ることのできない、曖昧模糊とした当人の判断によるものなので、それらを大々的に発揮して周囲が困惑、なんてなことにもなりかねません。
たとえば僕のような性根が強欲で我儘な人間などは、素直に正直に本当の自分を発揮してしまうと、だれも相手にしてくれなくなるので、極力猫かぶって正体がバレないようにしているわけです。(とはいうものの時折「本当の自分」が出てしまうのですが……苦笑)
さて、「自分らしい絵」についてですが、当教室では、客観的視点で「その人らしい」特徴を見つけだし、「絵として成立する。内容が面白い」という基準で制作方針を決めています。ですから、「私はこれが得意」「やってて気持ちいい」など本人の主観的「自分らしさ」はいったん引っ込めてもらって、その人ならではの良いものを生み出すにはどうしたらよいか、といことを一緒に考えます。
良いか良くないかという判断基準は、「その人が素直に描いているかどうか」にあります。
うまいとかへたとか、ほとんど関係ありません。素直に描ければ、おおかた良い絵になるはずです。「良い絵が出来たということは、素直に描けたということ」という判断です。
もちろん、僕の判断がいつも正しいはずはなく、また、本人と意見が分かれることもあると思いますが、とりあえずは、「自分らしさとは、他人が気付くもの」という前提で、人から認められた自分の特徴を受け入れ、続けてみると、「あ、これだ」と腑に落ちる瞬間が訪れるのではないかと考えています。
また、前述の例でいえば、「本当は陰湿なのに好感度抜群」「気持ち良いのにぎこちなく見える」という主観と客観のギャップこそが、実は創作の面白さであったりもします。
そして、良い作品が生まれたときに、それを描いていたときの自分がどんな状態だったかを思い返してみると、それまで自分が思っていた「素直な自分」とはまた別の自分に気付くこともあるかもしれません。
なんてなことを考えながら、受講生の皆と制作を行っています。
下の絵は、受講生ノリビー氏が描いたロッキーです。下書きナシの一発描きスタイルこそ、彼の「らしさ」がよく出ます。描くときの緊張感が程良いのでしょうね。