オンラインクラスが良いかんじです。
生徒さんたちの作品がどれも素晴らしい。
メールで送られてくる課題作品を見ては「おお!」と声を上げて興奮しています。
卓越した技巧に感心することもありますが、どちらかというと、作品から伝わってくる作者の熱量や真剣さに心を揺さぶられます。
作品に宿るエネルギーというのは、作者の制作時の姿勢によって決まるんですね。
才能は関係ナシ。
よく「私には絵を描く才能がないから」と、描く前に諦めている人がいますが、これは大きな間違いです。そして、絵が上手い人、個性的な絵を描く人に「あなたは絵の才能があるからね」というのも間違いです。
なぜ、絵が描けるか描けないかを、たったひとこと「才能」で片付けてしまうのか。
描けない人はなぜ、「才能がない」と諦めてしまうのか。
その答えは、たぶん描きかたを教わったことがないからだと思います。
もっと正確にいえば、ひとつの描き方しか教わったことがないから。
そのひとつの描き方とは、ほとんどの場合が「リアル」。本物そっくりに描く技法です。
たまたまその描き方が向いている人は、上手く描けるようになるでしょう。
でもそれは、ただ「得意」なだけであって、「才能」とは違います。
国語や数学が得意な人のことを、国語の才能がある、数学の才能があるとは言いませんよね?
絵だけがなぜか、得意=才能と解釈されてしまっています。
子供の頃に教わった国語や算数は、その「才能」がなかったとしても、日常のなかで道具として使えます。文章を書いたり、計算をしたり。これ、誰もが例外なくやっていることですね。ところが絵に関しては、描く人と、まるで描かない人とがはっきり分かれる。
「いや、べつに絵が描けなくても生活に困らないでしょ」と思うかもしれませんが、描けるのに描かないのはもったいないですし、じつはただ「描ける」ということ以上の効能が絵にはあるのです。
国語算数が読み書き計算で日常に役立てるとしたら、絵のほうは、絵を仕上げるためのプロセス自体が日常に役立ちます。
これこそが、絵の勉強によって得られる大きな産物であるので、利用しないのはもったいないのです。
やり方はひとつではない。答えもひとつではない、偶然と必然、全体と細部、構築と破壊、自己と他者、外見と内面、などなど、作品をつくるプロセスのなかで、じつに多種多様な要素が交錯します。そこで試行錯誤した経験や習得したメソッドは、そのまま(絵ではない)他の事柄にスライドすることも可能なはずです。
人並みに国語を勉強して、得意なことに気づいた人が更にのめり込み、文才を開花させて、プロの物書きになるように、まずは普通に絵の描き方を知り、得意な描き方が見つかったなら、それにのめり込み、その結果、画才が開花してプロ、みたいな道筋はあるかもしれません。
しかし、すべからくプロを目指すべくスタンスで才能を開花させようとすると、曖昧模糊とした、そもそも定義しようのない「才能」の有無に執着するという無意味な事態に陥ってしまいがちです。
当教室では、プロを輩出するためではなく、かといって趣味の範囲にとどまるのではなく、創造行為が人の日常にとって必要不可欠、あるいはもっと本音をいえば、人生においてなくてはならないもの、という捉え方で授業を展開していきたいと考えています。
生徒さんの創造性を引き出すためのプログラムを考えることも、私にとっては創造行為の一部であり、絵を描くことと同義であります。そうやって、くんずほぐれつ創造的アプローチを互いにやりあうことで、エキサイティングな日常が育まれていくのではないかと期待しています。