私は表現アートセラピーというものの存在を知ってはいたものの、セラピー(心理療法)という言い方にどうも抵抗があって、これまであまり詳しく調べようとはしませんでした。
ずっと絵を描くことを仕事にしてきたせいもあり、私にとって、アートの目的は常に「良い作品を生み出すこと」であり、アートをセラピーとして用いることには関心がなかったんですね。
快画塾でお伝えしているメソッドも、生きた線、良い作品を生み出すことが目的であり、そのために「無になりましょう」ということなので、ゾーンに入るとか、フロー状態になるのはあくまでも手段というわけです。
「無の状態で描くと傑作が生まれやすい」
これは私が長年の創作活動のなかで確信した創作のコツであります。
ですから、絵を描きながら「無」の状態を体験し、「快」を味わったとしても、それは単なる副産物に過ぎないと割り切っていました。
しかし、快画塾を開催し、たくさんの参加者の反応を目の当たりにして、目的と手段の逆転もアリなのでは?と考えるようになりました。
無になるために絵を描く。
快を味わうために絵を描く。
表現アートの目的は、感情の癒しや内的葛藤の解決だそうです。
傑作を生み出すのではなく、ただ、表現する。ただ、体験する。このプロセスそのものが、自己受容や自己治癒を促す。
私自身の絵との関係性について改めて思い返してみると、傑作を生み出すことを目的に利用してきた「無」や「快」は、結果的に、自分自身の内面にも大きく作用していたように思います。
もともと感情の浮き沈みが激しく、心配性で自己嫌悪に陥りやすい自分が、なんとかここまでやってこられたのは、絵(表現)という癒しの場所があったからかもしれません。
高次の意識状態に至る
表現アートセラピーの創始者ナタリー・ロジャーズ氏の著書『表現アートセラピー』には、「うんそのとおり!」と膝を叩きたくなるような言葉がちりばめられています。
表現することによって、感情が解放され、心が澄んで、精神が高揚し、高次の意識状態に至ることができる。このプロセスは、治癒的である。(「表現アートセラピー」より)
表現行為そのものへの集中が高まると、意識はスゥーっと上昇し、精神の高揚を感じながらも、至極冷静に自分自身を観察しているような感覚になります。
私がこの状態を有り有りと体験したのは、即興で絵を描くライブペインティングをやったときでした。
ミュージシャンが演奏する音を聞きながらキャンバスにただ色を置いていく。使用する体の機能は、聴覚と視覚と身体感覚のみ。
音、色、身体の動きが同調するにつれ、意識は高次へと上昇していきます。
このときの感覚を、当時私は「静かな興奮」と言葉にした記憶があります。
内面は興奮しているのだけど、目の前で起こっているすべての現象を、もう一人の自分が静かに観察しているいるという状態。
この静かに観察するもう一人の自分には、ただ「観察する眼」があるだけで、感情や欲望の発信源である自我は存在しません。
ほとんどの問題は自我によって引き起こされますから、自我を消滅させるこのプロセスが治癒的であるというのも納得できます。
ナタリーさんの本には、こんなことも書いてありました。
絵を描いて夢中になる体験をすると、日常の問題から解放される。(「表現アートセラピー」より)
わかるなあ。
問題が起こったら、絵を描いて解放。
私も日々実践してます(笑)
すべての人に創造的な能力が備わっている
ナタリー・ロジャーズ氏の著書『表現アートセラピー』には、他にも私がこれまで伝えてきたこととの共通点が幾つもありました。
すべての人に深遠で素晴らしい創造的な能力が備わっている。(「表現アートセラピー」より)
同感!
快画塾開催のなかで、参加者の方が生み出す絵を見て、私もそう確信しました。
快画塾HPの告知にはいつも「絵を描くことは人間にもともと備わった能力です」と書いてます。
創造的な種子の多くは、無意識、感情、直感から生まれる。
表現アートが日常生活で有用であることは周知の事実。たとえば電話中の落書きで心が落ち着く、など。(「表現アートセラピー」より)
同感!
教室のレクチャー動画で似た内容のものがあるので、是非ご覧ください。
『創造的アイデアが降りてくるとき』
無意識のフタを開ける
引き続き『表現アートセラピー』(ナタリー・ロジャーズ著)より印象に残った一文を。
無意識は私たちの深い井戸だが、多くの人はその井戸にフタをしている。(「表現アートセラピー」より)
木村創作教室が開催するワークショップ「快画塾」では、誰でも自動的に絵が描ける方法をお伝えしていますが、それは同時に、無意識という深い井戸のフタを開ける方法でもあります。
井戸のフタさえ開ければ、絵は自動的に生まれる。フタを開けて、井戸の奥深くへと潜っていくと、それまで気づかなかった自身の様々な感情に出会います。
快画(自動描き)によって生み出される線とは、もしかしたら、そんな無意識下の感情を引き連れて紙の上に顕現したものなのかもしれません。
だとしたら、無意識下の感情たちは、絵を生み出すための素材であると言えそうです。
心の内にある様々な感情は、創造的プロセスで使うことのできる素材(資源)である。(「表現アートセラピー」より)
絵を生み出すために井戸のフタを開け、感情を引っ張り上げる。そして絵によって、感情が解放され、癒される。という相互作用。
私たちは、感情をアートに転換し、感情を解放し、変化させることができる。(「表現アートセラピー」より)
快画塾で私はよくこれと似た話をします。
絵を描いてる最中はなるべく「無」の状態になるのが理想ですが、なかなかそううまくは行かず、多くの場合、様々な感情がわきおこるものです。
たとえば、描いてるあいだじゅうずっと不快だった、苦痛だった、もうやめてしまいたいと思った、等々。
しかし、終わってみたらなぜか傑作誕生!なんてことが、絵を描いてるとしょっちゅう起こります。
この場合、感情にフォーカスすると、それは不快な体験だったという結論になりますが、傑作のほうに目を向けると、これらは傑作誕生のために必要な感情だったことなります。
ですから、絵の講評のときに「傑作が生まれたね〜ナイス!」という私の感想に対して受講生が「え〜!描いてて苦しかったんです。だからこの絵はキライ!」と反応した場合にはいつも「そっか、じゃ傑作を生むためにこれからも苦しみながら描いてみよう!」と提案します。「そんなのイヤだー」と言われますが(笑)
「描いてる最中に表出した不快な感情は、すべて絵を生み出すために必要な素材である」
こう認識することが、感情をアートに転換することであり、それが感情の解放や変化にも繋がっていくのではないかと思います。
制作時の作者の感情と完成作品の関係
以前オンラインクラス・ドリルのメンバーに向けて作ったレクチャー動画に、似た内容のものがあるので、ご覧ください。
『制作時の作者の感情と完成作品の関係』
ポジティブにしろネガティブにしろ、感情が揺れ動くということは、それだけのエネルギーを持っている。つまり元気!ということかもしれません。
私のような年寄りになると、感情を発動させる元気はないので、絵の制作時には、感情エリアをすっ飛ばしてスーッと無のゾーンに入る、というワザ(?)を使います。
本来の衝動と欲求
創造性は私たちの全存在から生まれ、自分自身を表現したり、想像力と心の内的資源を使いたいという本来の衝動と欲求を、すべての人が持っている。(「表現アートセラピー」より)
これ、子供に当てはめるとわかりやすいですね。
たとえば「嬉しい」という感情(内的資源)があると、キャッキャと叫んだり、ぴょんぴょん飛び跳ねたりしますが、こういった表現行為を、誰に教わるともなく子供は自然に行います。
ということは、キャッキャ、ぴょんぴょんは、人間本来の衝動、欲求ということになりますね。
おもちゃ売り場の床に寝転がって「ギャ〜買って買って〜」と手足をバタバタするのだって、「欲しいモノをゲットしたければ床に寝転がってギャーギャーやるといいよ」なんて教わったわけでもないのに、不思議ですね。
ナタリーさんが言うように、内的資源を使いたい(表現したい)というのがすべての人の持つ衝動と欲求なのだとしたら、これ、大人になって使えなくなるのは、けっこうなストレスではないでしょうか。
あ、大人でもたまにキャッキャ、ぴょんぴょん、ギャーギャーを、きちんと(?)できる人、いますね。人として健全だと思います。
ちなみに私は子供の頃は内向的で、あまり感情を表に出す方ではなかったので、自分の体を使って内的資源を使うことは、ほとんどありませんでした。
もしかしたら、言葉や身体で自分自身を表現できなかったから、絵を描くことを選んだのかもしれませんね。
絵を描きながらいつも、キャッキャ、ぴょんぴょん、ギャーギャーをやってますから(笑)。
大人だって、嬉しいときはキャッキャぴょんぴょんしよう!思い通りにならないときは、床に転がってギャーギャー叫ぼう!それが無理なら絵を描こう!
というのが、私からの提案です。
新しい概念や信念に心を開く
『表現アートセラピー』(ナタリー・ロジャース著)には、快画との共通点がたくさんあり、読んでいてとても面白いです。
ナタリーさんは、創造性を育むには、内的条件と外的条件が必要と言ってます。
内的条件とは、経験に開かれること、評価の内的基準が自分にあること、だそうです。
「経験に開かれる」とは、防衛がなく、偏見なしに実存的瞬間をありのままに知覚する能力で、固執せず、新しい概念や信念に心を開き、曖昧さに寛容になることが含まれます。
これはまさに、快画のワークショップで「快画のキモ」として伝えている、「描く力→見る力」のことになります。
快画では、目の前にあるものを無心で描く(というより記録する)ので、描く力(技術)は必要ありません。
それよりも、ただ見て、手を動かし、記録した結果、自動的に生まれたものをどう見るか(見る力)が大事になります。
例えば目の前の人の顔を、見たまんま紙に記録すると、そこには顔(のようなもの)が現れますね。
すると描いた本人は、顔(のようなもの)ってナンダ?
いやいや、のようなものではなく、これは私が描いた顔であり、似顔絵であり、似顔絵にもかかわらず全然似てなくて、バランスも悪いし下手くそで、まったくもって許しがたい顔である。
なんて、自分の絵を見て思います。
これを「顔」ではなく、ただの「線のカタマリ」として捉えるのが、快画のキモということになります。私はこれを「フラット化」と呼んでます。
「今この瞬間に見えるものを記録したら、こんな線のカタマリが現れた」
これがナタリーさんの言う、実存的瞬間をありのままに知覚することなのだと思います。
現れた顔(のようなもの)をいったんフラット化して眺め(知覚し)、これまでの概念(上手とかソックリとか)に固執せず、新しい概念や信念に心を開いて、「お、このアゴのあたりのニョロニョロした線、キレイ!」とか、「なんだこの大きさの違う目は!なんだこの曲った鼻は!きっと私の個性に違いない!」という見方をしてみる。
瞬間瞬間に現れるものに対して、正解を決めず、曖昧さや矛盾を受け入れ、「え、ナニコレ!もしかしたら?」と新しい可能性に心躍らせることが、創造性のスパークにつながるのだと思います。
ちょっと例えがややこしくなりましたが、ようするに、これまでの常識や価値観を頭の中から追い出して、まっさらな目で眺めよう!感じよう!ということになります。
とはいえ、わかっちゃいるけど、これがなかなかムズカシイ。
私たちの多くは、見たり経験したくないものを視野の外に置きます。創造的な能力を発揮させるために、フィルターのかかったレンズを通してみるよりも、ありのままの体験に心を開く練習を積む必要がある。(「表現アートセラピー」より)
そうそう、練習なんですね。大人の私たちは、ありのままの体験に心を開くなんて、普通は無理。というか、私はむしろ、大人なんだから大っぴらに心を開くもんじゃない、と思ってしまいます。
普段はおとなしくしておこう。その分、アートで遊ぼう!暴れよう!という発想です。
だから快画塾ではいつも、「快画は大人の戦略です」と説明しています。
「無」の領域に入って常識を取り払い、創造性を活性化して、新しい概念を発明するという大人のゲームですね。
評価の内的基準が自分にあること
おさらいをすると、
創造性を育成するには、内的条件と外的条件が必要
↓
内的条件とは、
・経験に開かれること
・評価の内的基準が自分にあること
↓
「経験に開かれる」とは、ありのままに知覚する能力や、新しい概念や信念に心を開くこと
では、「評価の内的基準が自分にあること」って?
ナタリーさんは次のように説明しています。
人が他者の反応に耳を傾けることができて、その反応にさほど囚われないとき、その人は評価の内的基準を発達させている。(「表現アートセラピー」より)
人の反応に耳を傾けつつも、その反応に囚われないというのは、至難の技です。
快画のワークでは、見えるものを無心で描く「自動描き」というのをやりますが、いくら自動的に(勝手に)生まれたとはいえ、本人にしてみたら、その絵はまぎれもなく「私が」描いた絵ということになります。
なので他者の反応に対しても、「私が描いた絵」の方にではなく「この絵を描いた私」に向けられたと感じてしまう。
「なんかこの色、ばっちいね」などと言われると、「はいはい、どーせ私はばっちい人間ですよ。そんなこと私がいちばんよく知ってますよ」とか(笑)
多くの人が、認められたいという欲求を持っているので、他者からの評価より自己評価のほうが重要だという感覚を得るのが困難である。また私たちの多くは他者が批判するよりももっと厳しく自己批判している。(「表現アートセラピー」より)
自動描きに慣れてくると、この絵は勝手に出てきたものだから、「良いの悪いの知ったこっちゃない」となり、いったん「私」から離れられるようになります。
そのうえで改めて絵を眺めると「たしかにこの色ばっちい!」と平然と言えるようになり、また逆に「まあ素敵な作品ですこと!」なんて褒められた際にも、「いえいえ、それほどでも」と謙遜する「私」はいないので、「ほんと、素敵よね〜!」と一緒に喜べるようになります。
評価の内的基準を発達させるにつれて、適切なときに自分自身を信じたり、認めたりできるようになる。自分自身を正当に評価できるようになるに従い、他者からの継続的な賞賛を得る必要がなくなる。(「表現アートセラピー」より)
無心で描いたら勝手にこんな絵が出てきた。だから駄作と言われても自分には関係ない。
無心で描いたら勝手にこんな絵が出てきた。これを傑作と言うなら、無心になれる自分は天才!
この状態を私は「自分劇場で自我絶賛」と呼んでます(笑)
外からの評価のない環境
続いて、創造性を育成するために必要なもう一つの「外的条件」とは?
ナタリーさんの本には、外的条件とは「心理的安全」「心理的自由」「刺激、触発される体験」と書かれています。
まずは心理的安全について考察してみましょう。
心理的安全を得るには、外からの評価のない環境が提供されなければいけないそうです。
競争、成績、評価が常にある社会で、私たちは働き、競っています。どんな種類の批判や評価も、最小限か皆無である環境にいることは、本当に素晴らしいし、新鮮です。解放され、活力が生まれます。鳥を鳥かごから放つようなものです。(「表現アートセラピー」より)
またまた快画の話になりますが、快画ワークショップで参加者が描いた絵を講評する際に私がいつも心がけているのは、「評価しない、判断しない」ということです。
目の前のものを無心で描いた結果、自動的に生まれた絵には、正解も合格もないので、評価判断などできないからです。
快画の教室ではまさに、ナタリーさん言うところの批判や評価が皆無の環境を作っているのですが、この環境が「素晴らしくて新鮮」と参加者の皆さんに感じてもらうには、少し時間がかかります。
普段、競争、成績、評価が常にある社会にいる参加者の多くは、ここでも同じように、描いた絵は他の人と比べられ、優劣をつけられ、評価されるものという先入観があります。
むしろ、せっかく参加したのだから、評価してほしい、成績をつけてほしいとさえ思っているかもしれません。
ですから、鳥カゴのゲートを開けて「さあ、自由に飛びまわってください!」と促しても、じっとして動きません。
「正解なんてない」
「自分の正解を見つける」
このことを納得してもらえるように、快画のアプローチをお伝えし、実践していきます。
そしてひとたび納得しようものなら、その開放感たるやもう。
バサバサー!(←カゴから飛び立つ音)
共感と理解の鍵
「心理的安全を得るために必要な外からの評価のない環境」のつづきです。
ナタリーさんは、表現アートを伝える立場の人間は、評価、判断してはいけない、と言います。
前述したように、これについては私も同じように考えており、講座のときはいつも評価判断しないことを心掛けています。
絵を評価、判断しないのだとしたら、受講生に対してどのように対応したらよいのだろう?という問いに対してナタリーさんは、「作品を評価せずに、自分の反応を表現すること」と答えています。
「評価」と「自分の反応」は似て非なるので注意が必要です。
「上手ですね」「綺麗ですね」「丁寧ですね」「そっくりですね」
これは評価でしょうか?自分の反応でしょうか?
ナタリーさん曰く、一人称に言い換えるとよいそうです。
「私はこの絵が好きだ」「私は綺麗だと思う」「私は上手いと思った」
これが、自分の反応です。
賞賛だけでなく、「私にはちょっと退屈」「私はこの色がどうも苦手」というのも同じです。
しかしこれが「私は〜」でなく「あなたの〜」となると、反応ではなく評価になる。
「あなたの絵は素晴らしい」「あなたの絵は退屈」
ずいぶんと印象が変わりますね。
私たちが自分の反応をするとき、作品の作り手が、私たちの反応と、その人自身の内的評価を区別する余地が与えられます。(「表現アートセラピー」より)
私の場合は、まずは評価判断という概念を取り払い(フラット化)、相手と自分とのあいだに「これはただ生まれたものであり、良いも悪いも、上手いも下手もない」という共通認識を作ったうえで、相手と同じ視点から作品を眺める、ということを意識しています。
なので「あなたが描いた絵」を評価するのではなく、「あなたをキッカケに生まれた絵」に対して、私の感想を言う(反応する)ことになります。
そのうえで私は「この絵を生み出したあなた」について興味を持ちます。それが素晴らしい絵であろうと、退屈な絵であろうと、あなたは何を考え、どんな想いでこの絵を生み出したのだろう?と。
そこを掘り下げていくと、その人の持つユニークさや個性を発見できるようになります。
こちらが興味を持ちさえすれば、面白くない人なんて、皆無なんです。みんな、相当面白いのです。
本人も気づいてない相手の面白さを探すのは、宝探しみたいで楽しいです。
共感と理解の鍵は、クライアントの感情と知的内容の両方を正確に理解しようとする純粋な意図を持つことです。
純粋な意図。ほんと、そうですね。
私が数年前に教室のメンバー向けに作った動画「講評の基準」をご覧ください。
答えのない美の世界
自動描きによって生まれたものに「正解も不正解もない」という視点に立ち(フラット化)、そのうえで、自分にとっての正解を見つける。しかし、その正解も、絶対ではない。
このことについて、快画講師の講座で解説した動画があるのでご覧ください。
【快画のキモ「答えのない美の世界」解説】
心理的自由
ではつぎに、心理的自由について。
創造性のために必要な外的条件の二つめは、心理的自由です。
ナタリーさんによると、教師や親などの成長を促す人が、完全に自由な象徴的表現を相手に許すことによって、その相手は、深く考え、感じ、存在することの完全な自由が与えられ、それによって知覚や概念、意味に心を開き、無邪気に楽しみ、自発的にそれらと遊ぶことが促進されるのだそうです。
象徴的表現の例としてナタリーさんは、嫌いな人に対する感情を絵によって象徴的に表現すれば、その感情は相手を傷つけることなく開放され、それとともに新たな視野が生まれる、と説明しています。
表現アートは、象徴や隠喩を通した表現のための理想的な方法である、と。
わかりやすく(乱暴に)言うと、八つ当たり、でしょうか(笑)
たとえば「嫌い」という感情を相手にむかってストレートに表現するのも、それで感情が開放されるのなら、我慢して溜め込むよりはマシです。
いっぽう、嫌いな人の似顔絵を紙に描き、そこに感情の赴くまま「コノヤローバカヤロー」と叫びながら絵の具をぶちまけたり、ぐちゃぐちゃに線を引いたりしていると、だんだんと感情が落ち着き、かわりに感覚が研ぎ澄まされていくのがわかります。紙に現れる色や線を、ただ、視覚で認知している、という状態です。
私が通った絵の学校の先生は、入学のときに「お前たち、絵は中毒になるよ」とおっしゃっていました。はじめは何を言ってるんだろう?と思いましたが、しばらくすると本当に中毒になり(笑)、その意味がわかりました。
絵を描いているとき、心は完全に自由なのです。無邪気に楽しむことに加え、配色とか構図とか筆のタッチとか、どうしたらキレイな絵になるのだろう?と考えながら、現れる線や色を感知する。この感じがとても心地いい。
こんな楽しい遊びに没頭しながら、同時に「コノヤローバカヤロー」という感情を発動させるなんて、無理(笑)。
だからみなさん、絵を描きましょう!
というメッセージでした。
刺激、触発される体験
創造性を育むために必要な外的条件の三つ目の要素は「刺激、触発される体験」です。
私たちの多くは、安全ではない環境で、創造的であろうと努力してきました。正しいとか間違っていると先生が判断を下す教室やスタジオで、アート材料が提供されました。あるいは、私たちがダンスし、歌った後で直され、評価され、成績をつけられてきました。批判されない支持的な空間で、いろいろな材料とともに探求し、実験する機会を与えられることは、多くの人々にとってまったく新しい体験となります。このような場の設定によって、深く没頭し、正直で無邪気になれます。(「表現アートセラピー」より)
快画のワークショップには、「子供の頃に親や学校の先生から絵を否定されて以来、描けなくなってしまった」または、「子供の頃に好きだった絵を、さらに深く学びたいと思って美大に進んだものの、そこで絵の才能がないことに気づき、描くことをやめてしまった。もういちど楽しく描けるようになりたい」という動機で参加される方が多くいらっしゃいます。
思い返してみると、私自身も、小・中学生の頃に美術の時間を楽しいと思ったことはありませんでした。
中学生になって初めての美術の授業は作文でした。出されたお題が何だったか忘れましたが、その作文に私は「美術の時間に、絵ではなく文字を書かされるのは納得いかない」と書いて提出し、あとで教師に呼び出され、説教された思い出があります。
また、大人になってからは、こんなことがありました。散歩で近所の小学校の前を通りがかると、ちょうど屋外授業の最中で、子供たちが校庭の桜の木を写生していたのでフェンス越しに見学していると、一人の女の子が「できたー」と叫び、嬉々として先生にその絵を見せました。
絵を見た先生は真顔になり、「〇〇ちゃん、本物をよく見て。桜の木は下のほうが太くて、上にいくにしたがって
だんだん細くなってるでしょ。〇〇ちゃんの絵は逆よ。はい、描きなおし」
それまで上機嫌だった女の子はうなだれて、その後絵を描こうとはしませんでした。
「すごい場面に遭遇してしまった……」
オジサン(私)もがっくりとうなだれ、その場をあとにしました。
多くの人は、もしかしたらこのような経験によって「私には絵心がない、才能がない」という意識を持つようになるのかもしれません。
刺激、触発される体験ではなく、評価、判断される体験。
もういちど、ナタリーさんの言葉を。
批判されない支持的な空間で実験する機会を与えられることは、多くの人々にとってまったく新しい体験となります。このような場の設定によって、深く没頭し、正直で無邪気になれます。(「表現アートセラピー」より)
絵心がない、絵の才能がないのではなく、実験の場がなかっただけ。年齢は関係ありません。支持的空間のなかで没頭すれば、いつからだって、正直で無邪気に自分を表現することは可能だと、私は思います。
以上、表現アートセラピーと快画の共通点についての考察でした。
『表現アートセラピー』の本では、ここから具体的なワークの紹介に入ります。アマゾンで購入できるのでリンクをはっておきますね。