ニレジハージ

不定期連載 私の出会ったクリエーター、またはその体験 穂積政浩

第1回 アルヴィン・ニレジハージ

 

木村創作教室のみなさん、こんにちは。
運営スタッフの穂積と申します。いつもみなさまのご参加の状況と習熟の度合いは、木村先生よりお聞きしています。みなさま、とても素晴らしいと思います。また上達されると同時に人によって差が出てくる頃と思われますが、どうか他の方と比較されることなく、ご自分の道を着実に歩んでいただければと思います。人によって、進み方は違いますし、習熟や個性の出方の時間に至っては、二ヶ月や三ヶ月では、まったくもって計れないものですから。大器晩成という言葉もあるように、自在に、自由に、ご自分を現すことは、長き道のりがあるもので、諦めず、信じて一歩ずつ歩まれる方だけが、その世界に入れるものと思います。
そして、その世界に入れたときは、まったくもって、みなさまは仙人のように、とても楽しく、自在に、ご自分を表現でき、同時に人に対して強いインパクトを与えられる方となることでしょう。とても楽しみです。
かねてより、クリエーターとして出会った方や、体験したことを、ホームページを通じて、みなさまにも紹介させて頂こうと、木村先生とはお話ししておりました。遅ればせながら、不定期更新ではありますが、これから始めさせて頂きたいと思います。
第1回目は、私が出会った音楽上の天才、アルヴィン・ニレジハージについてです。
Ervin Nyiregyhazi,(1903年1月19日生 – 1987年4月13日没)は、ハンガリー生まれの音楽家です。
1925年に出版された「The Psychology of a Musical Prodigy 」(「音楽の天才の心理学」)という本があります。私の手元には1970年に再出版され、ニューヨークのリンカーンセンターにあった本があります。また訳として、菅原文太さんの事務所で訳されたものがあります。ここには、1人の小さな子供の音楽的な才能についての観察記録が残っていますが、その内容は驚くべきものです。すなわち、伝え聞くところのモーツァルトの幼少期の様子と酷似している記録が残っているのです。
一、幼少時からのニレジハージ

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その子供は、1歳の頃にテノール歌手だった父をまねて、話すより先に歌おうとしたとあります。二歳の時には、まだ言葉を話せなかったが、歌って聞かせられるメロディを正しく歌えたという。三歳になると、彼には完全な音感が備わっていて、ある音符の音を聞かせるとその音符の位置をピアノの上で正しく示すことが出来ました。また自分で聞いたすべてのメロディをピアノで弾けたそうです。この頃、断片的に、思いつくままのメロディをピアノで弾き始めました。三歳半で、彼はもう伴奏部をつけた小さな曲を作曲。四歳の時には、著名な音楽アカデミーの奏者の前で、自作の曲を演奏しました。またその子供はそれまで音楽の指導を何も受けていなかったのです。四歳ではじめて、ピアノの弾き方と音符の読み方を教わり、六歳で音楽院に入り、八歳の時にはロンドンから招かれ、王族や首相、社交界の人の前で演奏しました。六歳の時の作曲で現在も記録が残っているものは、舟歌、子守歌、小妖精の踊り、結婚行進曲、葬送行進曲、セレナードなど。両親は彼の天才を信じ、それで生活費を稼ぐなどのことはせずに、よき先生を与えたそうです。ピアニストのドホナーニ、指揮者のフィードラー。後に十二歳でベルリンフィルハーモーニーと共演し、十七歳でアメリカに渡り、カーネギーホールでコンサートを開いています。幼いときに目覚めた才能、あらゆる面での早熟な才能、想像の激しさと気楽さ、楽器を巧みに弾く才能、芸術に対する深い愛情、レベルの高い知性、機知、生きる喜び、優しさ、両親への献身、音楽教師への愛着、そのどれもが子供の頃のモーツァルトと共通していると断ずるその本のモデルこそ、アルヴィン・ニレジハージでありました。事実、当時の人々は彼を、モーツァルトの再来と評しました。

・・・小さいアルヴィンは、本の中でこう述べています。
「悲しいことは作曲したくありません。ぼくは悲しみは嫌いだから。僕は生きる喜びが好きなんです。」
「ある作品をどのように弾くかは、僕の情緒によります。僕自身の情緒の状態を作品の中にうまく取り入れられれば、演奏はうまくいくし、そうでなければ成功しません。」

・・・・彼の名声は広くヨーロッパとアメリカに行き渡りました。

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私が会った中でもっとも偉大な天才だ。なぜ、12歳の子供がこれほど見事に音楽を理解できるのか、私には信じられない。
(ホイゼッガー、指揮者)
リスト以来、最大のピアノの才能だ。
(マーティン・クラウセ、リストの高弟)
ハネカー(1857-1921当時、最も影響力があった)いわく、「リストの生まれ変わり」。「新たなリスト」それはどうやら正しかったらしい。リストが、ニレジハージほど素晴らしいと仮定 しての話だがね。………彼がピアノから引き出す響きは空前絶後のものだよ。少なくとも、私はあんな響きは聴いたことがない。
(アーノルド・シェーンベルグ、作曲家、クレンペラーへの手紙)
演奏を終えたニレジハージに)あなたは私の知る限りの最大の才能、天才だ。
(アーノルド・シェーンベルグ)

二、崩壊

その彼の輝かしいキャリアは、マネージャーとのトラブルによって一瞬にして崩壊しました。まだ20代初めの頃でした。また彼には不幸にも音楽以外は、服のボタンもつけられないほどの世渡りの才能がなかったようです。アルヴィンの苦しい彷徨の季節が始まりました。私がアルヴィンに会った時の報道では、マネージャーとのトラブルで表舞台から去った後、50年間も、半世紀もピアノに触れていなかったといいます。(事実はそうではなく、確かにピアノは持たなかったが、小さい教会で弾いたり、酒場での演奏などは、小金集めのためにしていたそうです。また演奏会は度々その時々の協力者によって開かれていました。)二十代はじめに消えたアルヴィンが、また世間を騒がせたのは、なんと50年後の彼が七十歳の頃のことでした。病気の妻の治療費を稼ぐために1973年、サンフランシスコ郊外の小さな教会、Old First Churchでのコンサートにおいて、リストの「二つの伝説」の演奏が、聴衆の一人のカセットテープによって無断で録音されました。それを聞きつけたレコード会社から、レコードを出しましたが、すぐに彼はまた消えてしまいました。ロサンジェルスの安宿に10番目の奥さんと住み続け、小さいころからの作曲はやめることがなかったといいます。

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三、日本でのコンサート

大学生だった私は、その頃出た教会のレコードを聴き、驚愕しました。技術とか何とかでなく、魂が揺さぶられる演奏でした。彼は、リストに耽溺していましたが、彼の弾くリストの「小鳥と話すアッシジの聖フランシス」「波間を渡るパオロの聖フランシス」は、圧倒的でした。私はどうしても彼に会いたくなりました。また会って、どうしたらこんな演奏ができるのか、作曲したものもあると聞いたけどもどんな曲か?どうやって作曲しているのか?なんとかして会えないものかと思ったものです。とても実現できないような話でしたが、それが突然現実のものとなりました。新聞の片隅に、ニレジハージが高崎で小さいコンサートをすることが載っていたのです。日本人が二人、虚無僧の格好で、ロスアンゼルスのとても安いホテルにすんでいたニレジハージを探し出し、説得して、日本に連れてきたとありました。すぐに私は二日あるコンサートのチケットを購入し、そのうちの一日を聞きに行きました。サロンのような中で行われたコンサートは大変よいものでしたが、レコードで聴いたほどの衝撃はなく、しかしもっと何かあるはずと思い、私は、そのままアルヴィンを翌年再度よんで自作の曲を演奏するコンサートをつくっていく主催者の手伝いをすることになりました。音楽は分からずとも、アルヴィンの生き方に興味をもち著名人も参画してくれました。菅原文太さん、井上ひさしさん、当時の読売新聞の会長の小林 與三次さん、その他いろいろな方がいましたが、主には、読売新聞の小林さん、菅原文太さん、そして7-8名ほどのニレジハージを愛する人たちで呼ぶことになりました。中心は、虚無僧の姿をしてニレジハージを説得した二人の方、小池哲二さん、関川昌宏さんです。いろいろなことがありましたが、ついに翌年、1982年1月10日、高崎でアルヴィン・ニレジハージの作曲した曲が、彼自身の手で演奏されたのです。

その時の演奏会は空前絶後のものでした。裏方だった私自身は、舞台のそでで演奏を聞きましたが、アルヴィンがピアノを弾いた途端、一瞬にして世界が変わり、その世界につつまれました。あれは演奏というものではなかったのかもしれません。まさしく、その時、世界が一瞬にして出来たのです。もう30年も経つのに、彼の弾いた自作曲Tired Tiredを私は忘れることが出来ません。それから多くのコンサートに参加させて頂きましたが、その時のような音楽体験はただの一度もありませんでした。演奏後、ピアノには血がついていました。指をどこかで切ったアルヴィンは最後まで、そのまま弾き続けていたのです。私は心の中でひそかに、アルヴィンが最も表現したかったことを今日表現したのだと思いました。

翌日の新聞は、このコンサートを絶賛しました。

「魂揺さぶる」(読売新聞)
「半世紀ぶり孤高の旋律」(東京新聞)
「金のための音楽と決別」(朝日新聞)

その後、1月19日アルヴィンの誕生日の読売のレセプションでのホテルニューオタニでの演奏、1月21日、東京でラフマニノフ等の演奏(これが一般的には一番受けが良かった)と続きました。
今までの話だけからすると、晩年のアルヴィンはとても幸せで、日本は彼の天才の再発見者のように受け取れます。しかし実際は違っていました。アルヴィン・ニレジハージが日本を理解者とみて、幸せだったのは間違いありません。しかし演奏会の本当の反応は違っていたのです。特に高崎での自作コンサートは、評価を混乱させ、途中の幕間で席を立って、怒って、会場を去って行く人がいることを私は呆然として、眺めていました。
その一方で、演奏会後、あまりにもその演奏の説得力に感動して、ほうけたように席を立ち上がれない人を私は見ました。
また著名人の多くは音楽が分からなくて、K氏さえも、演奏の幕間で、もっと違う曲をやって欲しいという始末でした。重たい曲は、圧倒的。しかし日本人は酔うような曲を要求している。そのような曲を弾いてくれないか、と。
スタッフとして立ち会いながら、私はアルヴィンは理解されていないと感じていました。またどうして、このような極端な現象が起きるのか不思議でした。
その後、関係者が集まった時の感想を聞いて、私はまたびっくりでした。スタッフの中では、私以外で、あの高崎のコンサートがよかったという人がいなかったのです。また読売新聞がバックにあったこともあり、評論家でまともな批判した人は一人もいませんでした。こんなひどい音楽だけどたてついたら損という空気だったと思います。

武満徹は言ったそうです。
「頭、おかしいんじゃないの。」

四、天才から学ぶもの

ここ100年の音楽の歴史上の変化は、ちょうど、アルヴィンが全盛期だった1920年代頃に徐々に起こっています。調性をはじめとする従来の音楽様式を否定した先鋭的な音楽が跋扈し、無調や不協和音を多用した実験的な音楽が現代的ともてはやされました。それは個性の表出というよりも、技術的な問題が第一義とされ、そういう意味での新しさこそ、最大の価値といった方向への傾斜です。一般的な演奏会での再現芸術も、ただ早くて、技術的で、乾いたものになっていったと、私は思います。

アルヴィンは言います。

「今日のピアニストは表現性がひどく乏しいので、演奏を聴いていてあまり感情が感じられない。」

「すべての音を誤りなく鳴らそうと過度の注意を払うことはありません。なぜなら、それが事柄の核心ではないからです。」

「私は誰かを感心させてみようというつもりはない。」と彼は言った。「ただ自分自身を表現したいだけだ。」
(以上、「失われた天才」 ケヴィン・バザーナ より)

そして、さらに・・・

考えて作らない。音楽が流れてくる。どうしようもない。
(来日時の発言より)

自分のエッセンスを10日(高崎)でやる。
(来日時の発言より)
音楽のエッセンスは・・・

• 宇宙のエネルギー
宇宙のエネルギーが見える。色もない、形もない。

• セックス
創造の喜び、合体の喜び

• ヒューマニティー
(来日時の発言より)

神の存在は信じるが、教会の教義なぞ信じちゃいない。
そしてはっきりとは定義できない「高次の力」が自分の音楽的才能や霊感の源になっているとも信じていた。
(「失われた天才」 ケヴィン・バザーナ より)

人生で一番大切なことは?
Make a Love
(来日時の発言より、私の質問に答えて)

旋律を並外れて力強く前面に出す傾向があったが、これは彼に言わせれば説得力のある、うっとりするような抒情性こそ、自分の感情的なメッセージを伝える主要な手段だったからである。
(「失われた天才」 ケヴィン・バザーナ より)
結局、本人も自分の音楽的アイデアの無意識的な源については、本当には理解していなかったと認めている。
アイデアはともかく降りてくる。彼曰く「主なる神」から。
(「失われた天才」 ケヴィン・バザーナ より)
「本当のところ、私は指揮者で歌手なのだ。」
(「失われた天才」 ケヴィン・バザーナ より)
自分の曲の中にあるのは、「私の魂の言い表せない苦しみの苦悩」であり、自分の「悲しみや悲劇、圧倒的な荒れ狂うような激情や不吉な決意」であり、自分の「これまでの辛い宿命、落胆、心痛の数々」であり、それが音楽を生み出し、その結果生まれた音楽は「そんな感情の、魂のそうした苦悶の、悲劇的精神を吹き込まれた人生の、永続的な記念碑」となっているのだと、彼の音楽語法は(例の心情にあるとおり)一生を通じて、そして作品群全体を通じて一貫して「本質的に悲劇的で陰鬱」であり、結果として、個々の作品の動機となった主題がどれほど多様であろうと、そこには繰り返し現れる、ごく少数のいつも変わらぬ創作傾向が聞き取れるのである。
(「失われた天才」 ケヴィン・バザーナ より)
「自分を博物館に入れようとしている。」
「私の音楽は化石じゃない。」
「自分の音楽を19世紀に杓子定規にはめようとしている。」
(復活させたある財団について、来日時の発言)

「私がみんなと違うのは、ただ事実を正確にいうだけだ。」
(来日時の発言より)

アルヴィン・ニレジハージは真の天才でした。
現代音楽が、旋律や調性を失い、感情のない表現へと向かう中、人もそれに慣れ、そういうものこそ素晴らしいと自然に感じられてくるようになってしまったと私は思います。しかし、アルヴィンは、まったくそれを無視し、ただ自分の感情、気持ちを正直に表現してきただけなのだと思います。齢80近くで来日したとき、確かにミスタッチももたつくフレーズもありましたが、それを尺度とする現代の人の耳には、哀れな時代遅れの音楽と聞かれたかも知れません。しかし昔も今も人の悲しみ、喜びは変わらないはずで、それを大事にする人には、素直に、その旋律が心に響くことでしょう。私たちは、自分を絶対とする尺度から逃げられないですが、それでは成長はない。もっと素直に、もっと心を開かなければ、特に晩年のアルヴィンの音楽には何も感じられないと思います。現代の音楽家の作曲方は、ピアノや楽器を使って、ヒントを得て、徐々に組み立てます。気持ちの部分はとても、小さい。しかし、その逆であれば、アルヴィンと同じ経験をすることでしょう。

考えて作らない。音楽が流れてくる。
(アルヴィン、来日時)

言葉を無意識のうちに話すように、心の想いがそのまま曲として流れてきます。

天才を別人として見ることなく、自分の創作方法の糧にすることが出来たら、私たちはより広いステージに移れることと確信します。
なかなか彼の曲は、聴く機会がないと思いますが、一度Youtubeなどで、聴いてみてはいかがでしょうか?





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ABOUTこの記事をかいた人

1965年生まれ。セツ・モードセミナー卒業。1990年より創作活動を開始。 人間の顔をメインモチーフに、様々な表現法を駆使して作品を量産。2003年、バーチャルタレント集団 「キムスネイク」を生み出し、個性的なキャラクターのアニメーションを、テレビ番組やCM、WEB等で発表。 主な仕事:「ベストハウス123」「マツコの知らない世界」「GLAY」「VAMPS」など。 主な受賞:第7回イラストレーション誌「ザ・チョイス」大賞受賞、アヌシー国際アニメーションフェスティバル(2010)など多数。 絵の講師歴25年。 神戸芸術工科大学非常勤講師